<前回の記事の続きです>
「私」とは何なのでしょうか? 肉体でしょうか? 思考でしょうか? 感情でしょうか?
そして、その問いを深めた末にしばしば出会うのが「私はいない」という逆説的な結論です。
量子力学の視点「"観測者"の役割」
現代物理学の最先端である量子力学では、「私」という存在や現実そのものの捉え方を、次のように説明することができます。
量子力学の世界では、粒子は観測されるまで明確な状態を持たず、複数の可能性が同時に存在する「重ね合わせ」の状態にあるとされます。
そして、観測者が観測を行うことによって、その状態が一つに確定する「波束の収縮」が起こると考えられています。
この量子力学の考え方を拡張すると、「私」という観測者の存在が現実を形作っている、という解釈が可能になります。
もし「私」がいなければ、現実は明確な形を持たず、曖昧な可能性のままであり続けるのです。
つまり、「私」という意識が、この世界を「存在」させているという、ある種の共同創造の概念が浮かび上がってきます。
スイスの精神科医で分析心理学の創始者であるカール・グスタフ・ユングは、量子物理学者ヴォルフガング・パウリとの共著『自然の解釈と心』の中で、
物理世界と心理世界がシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)によって繋がっている可能性を示しています。
私たちの意識が、単なる物理的な現象の受け手ではなく、現実を形作る能動的な役割を担っているとすれば、「私」がいない世界は、私たちが知るような現実としては存在し得ない、ということになりますね。

「私」は「関係性」の中に存在する
ここまでの見解で、「私」というものは固定された実体として存在するのではなく、様々な要素や関係性の「集合体」であり、絶えず変化し、流動的なものであるという見方が浮上します。
例えば、私たちは家族、友人、社会といった様々なコミュニティとの関係性の中で「私」を認識し、他者との交流を通じて、私たちは自分の役割やアイデンティティを形成していきます。
もし他者がいなければ、私たちは「私」という概念をどのように認識するでしょうか?
日本の哲学者である西田幾多郎は、その主著『善の研究』において、「純粋経験」の概念を提唱しました。
これは、主観と客観が分かれる以前の、直接的で未分化な経験の段階を指します。
彼は、この純粋経験の中にこそ、本当の自己、つまり「絶対無」としての自己があると説きました。
私たち一人ひとりは、宇宙全体の広がりと一体であり、その関係性の中で個としての「私」が現象として現れていると考えることができます。
つまり、「私」は、宇宙という広大なシステムの中で、絶えず他の要素と相互作用し、関係性を築きながら存在していることになります。
統合的な視点
こうして見ると、「私はいない」という洞察には共通の核心があります。
* 主体として固定的な自己は、実体ではなくプロセスである
* 記憶や思考が自己を再現するが、それは一時的な活動にすぎない
* それを超えた意識そのものは、個人に限定されない普遍性を持つ
スピリチュアルでは「ワンネス」、仏教では「無我」や「空」、脳科学では「自己モデルの停止」・・・いずれも異なる言葉を使いながら同じ方向性を指しています。
自己を固定化する執着から離れるとき、私たちは「私」という狭い境界を超えた、開かれた気づきの場に触れるのです。

では、誰が経験しているのか?
もし「私」がいないなら、いったい誰がこの文章を読み、考えているのでしょうか?
これが「私はいない」という命題の最も深いパラドックスです。
この問いに、禅の師は「無言」で応えるかもしれません。
言葉で定義された「私」を探しても見つからない。しかし、この瞬間、読んでいる「気づき」は確かにあります。
その気づきには、便宜上「私」というラベルを貼っていますが、そのフェーズではそのラベルそのものが無いですよね。
「私はいない」がもたらす恩恵
「私はいない」という言葉は、一見すると存在の否定のようにも受け取れる側面があります。
でも、この言葉の真の意味は、固定された「私」という幻想から解放された広い意味での自己、または宇宙全体との一体性を認識することにあります。
「私」という小さな枠組みに囚われることなく、世界とのつながりを感じることができれば、私たちは多くの苦しみから解放されます。
自己中心的な思考や、他者との比較による劣等感、過去への後悔や未来への不安といった感情は、「私」という強固なエゴが作り出すものです。
このエゴが希薄になることは、私たちをより自由に、そして慈悲深く生きられるようになるための珠玉の感性であると言えると思います。
成功者の多くは、自己の限界を超え、より大きな目的のために行動する中で、真の充実感を見出しています。
例えば、Appleの共同創業者であるスティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学の卒業式スピーチで「点と点をつなげる(connecting the dots)」ことの重要性を説きました。
彼の人生において、一見無意味に見える経験の点々が、後になって見事につながり、革新的な製品を生み出す原動力となりました。
これは、固定された「私」という視点ではなく、より大きな流れの中で自己を位置づけることで、予期しない可能性が開かれることを示しているのだと思います。
まとめ
「"私"はいない」を端的にまとめると、
● 分離した主体が実在するという錯覚を見抜く洞察
● 思考・感覚・記憶という流れに気づく純粋な意識に回帰する体験
ということができます。
「私はいない」という言葉は、私たちが普段漠然と捉えている「私」という存在に対する、深く本質的な問いかけです。
多角的な視点からこの問いを探求することで、「私」とは固定された実体ではなく、絶えず変化し、関係性の中で現れる流動的な現象であることが見えてきます。
これは、決して「私」の存在を否定するものでも、単なる理屈でもなく、生き方や苦しみの手放しに直結する知恵でもあります。
むしろ、固定された「私」という幻想から解放されることで、私たちはより大きな世界とのつながりを感じ、自己を超えた可能性を発見する機会を得ることができます。
もしあなたがこの問いに関心を持ったなら、「私がいない」という感覚を理屈で解釈しようとするのでなく、自ら静かに観察し、体感する道に進んでみてください。
そこには、思いがけない自由と静寂が広がっているでしょう。