「私」とは? 非二元

「私」とは、どこにいるのか? 「私はいない」とは何か? Part.1

「私」という言葉は、私たちの日常会話において最も頻繁に使われる単語の一つでしょう。

 

同時に、人間が生きるうえで最も根源的な問いの一つは、「私とは何か」というものです。

 

この「私」とは一体何なのでしょうか? 肉体でしょうか? 思考でしょうか? 感情でしょうか?

 

そして、その問いを深めた末にしばしば出会うのが「私はいない」という逆説的な結論です。

 

これは単なる哲学的な思考実験というわけではなく、古今東西の精神探求者が、体感を通じて語り継いできた洞察でもあります。

 

今回は、この「私はいない」という言葉の深遠な意味とは何なのか、多角的な視点から見ていきたいと思います。

 



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スピリチュアルな視点「自己は幻想」

スピリチュアルな教えの多くは、「私(個の自己)」という意識が、実際には分離の幻想であると説いています。

 

たとえば、ニューエイジ(1960年代後半から広まった自己意識運動・宗教的潮流・文化運動の総称)の思想や、非二元(ノンデュアリティ)の教えでは、「全ては一つの意識から生じた現れにすぎない」とされます。

 

南インドの聖者ラマナ・マハルシは、「自己探求を通じて『私は誰か』を問い続けると、最後に残るのは純粋な存在意識(I am)、それ以上の『私は何々である』というラベルは消えていく」と語りました。

 

スピリチュアル(ここでは魂的な意味合い)な体験を深めると、「私」として固有に感じていた主体が、実は「この瞬間に現れている意識の働き」でしかないことが明らかになると言われます。

 

「私の考え」「私の感情」「私の身体」という感覚は、実際には思考や感覚に一体化している錯覚にすぎず、本質的に分離した「私」はどこにも存在しません。

潜在意識の視点「アイデンティティの記憶」

心理学や潜在意識の分野では、「私」という感覚は幼少期から蓄積されてきた記憶、条件づけ、信念によって形成されていると考えられます。

 

フロイト(1856年-1939年 オーストリアの心理学者・精神科医)は、無意識の領域を重要視し、個人の行動の大半が意識されない動機によって動かされていると指摘しました。

 

つまり、表面的な意識は「氷山の一角」であり、その下には自分では「自分」と認識できない潜在的な心の構造があります。

 

潜在意識研究では、以下のような考えが主要になっています。

●「私」という感覚は、自分を一貫した存在だとみなす記憶の連鎖に基づいている。

● 記憶や信念の再生が止むと、「私」という感覚も消えていく。

● つまり、私が「私だ」と信じているものは、脳内のパターン化された反応でしかない。

潜在意識を深く探ることで、「私」とは記憶の集合体に過ぎないのではないか、という問いが生じるのではないでしょうか。

哲学での視点「私の不在」

哲学の歴史は、「私」の存在を巡る問いの歴史でもあります。

 

近代哲学の父、デカルトの「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」という有名な言葉がありますが、デカルトは思考する主体としての「私」の存在を確立しようとしました。

 

しかし本当に思考が「私」なのでしょうか?

 

18世紀のスコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームは、その著書『人間本性論』の中で、自己(私)を観察しようとしても、そこには常に特定の知覚(感情、思考、感覚など)しか見出せず、

 

それらの知覚を束ねる固定された「自己」なるものは見当たらないと主張しました。

 

彼は「私」を「知覚の束」と表現し、絶えず変化し、連続性のない知覚の連なりの中に、固定された「私」という実体は存在しないと考えたのです。

 

私たちは、思考や感情、感覚といった移ろいゆく知覚の連続性を「私」と認識しているに過ぎないのです。

 仏教の視点「無我の教え」

仏教は、この疑問に対して最も体系的にアプローチしてきた伝統の一つです。

 

仏教においては、「私」という固定された実体は存在しないという「無我(アナッタ)」の教えが根幹にあります。

 

ブッダは、私たちの苦しみの根本原因は、「私」という誤った自己認識、すなわち「我執」にあると説きました。

 

ブッダの教えによれば、私たちが「私」と認識しているものは、色(物質・肉体)、受(感覚)、想(想像・表象)、行(意思・行い)、識(認識)という五つの要素「五蘊」("ごうん"と言います)が一時的に集合したに過ぎません。

 

そして、これら五蘊は常に変化し、とどまることがありません。

 

例えば、私たちの身体は常に細胞が入れ替わり、思考や感情も一瞬たりとも同じ状態ではいられません。

 

この絶え間ない変化の中に、固定不変の「私」を見出そうとすることは、砂を掴むようなものです。

 

この「五蘊皆空」(五蘊に実体がないということ)の真理を理解し、「私」という執着から離れることによって、私たちは苦しみから解放されると説かれます。

 

この洞察が深まると、行為や感覚はただ現れては去る現象であり、「私がしている」「私が経験している」という感覚は後付けのラベルであることが体感されます。

 

この無我の認識は、執着や苦しみを和らげる根本的な鍵であることがわかります。

禅の視点「即今・無心」

禅では、さらに直接的かつ体験的に「私がいない」という事実を指し示します。

 

臨済宗や曹洞宗の禅では、言葉や概念で自己を固定することを超え、坐禅によって「ただ今ここにある意識そのもの」と一体化することを目指します。

 

公案(こうあん)とよばれる禅宗における問答も、二元的な思考や論理で理解しようとする「私」を超越するための訓練です。

 

鎌倉時代の禅僧、道元禅師(曹洞宗の宗祖)は「身心脱落」と表現しました。

 

これは「身体も心も落ちる」という意味で、主体と客体(例えれば自分と世界)の分離が消え去った境地です。

 

このとき、行為はただ自然に起こり、「私が坐っている」という自己意識は消失します。

 

禅は体験によって「私がいない」を悟ることにつながる道です。

脳科学の視点「"私"は脳のモデル」

最新の脳科学では、「私」という感覚は脳が生存に有利なように作り出したモデルだと考えられています。

 

英国の神経科学者アニル・セス(1972年-)は、「意識は予測である」という仮説を提唱しています。

 

脳は常に内外の情報を統合し、「これは私の体であり、これが私の思考だ」という一貫した自己像を生成します。

 

この「自己モデル」があるからこそ私たちは「自分が経験している」と感じることができますが、その自己モデルは分離した実体ではなく、動的に更新され続けるプロセスです。

 

脳科学では、この自己モデルが一時的に崩れる現象も確認されています。

● 解離性障害や変性意識状態では、「私の身体感覚がない」「私が私でない」という体験が起こる。

● 一人称の視点や「身体所有感」が脳の特定の領域で統合される。

つまり、「私がいない」とは、脳の自己モデルが機能停止したときの認知状態であるともいえるのです。

 

脳科学が示す「"自己"の構築」

脳科学の進歩は「私」の存在に対する私たちの理解を大きく変えつつあります。

 

私たちの「自己」という感覚は、脳が作り出す一つの精巧な仮想現実であるという見方が有力になりつつあります。

 

カリフォルニア大学サンディエゴ校の神経科学者ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン博士は、幻肢痛の研究を通して、脳が身体のイメージ(身体図式)を構築していることを明らかにしました。

 

手足を失った人が、あたかもその手足が存在するかのように痛みを感じる幻肢痛は、脳が失われた身体部位の神経回路を維持し、そこに「存在」を感じるために起こると考えられています。

 

これは、私たちの身体感覚や「私」という感覚が、単なる物理的な実体ではなく、脳内で再構築されたイメージであることを示唆しています。

 

つまり、「私」の肉体と思っているものは、脳が作り出した「身体図式」というシミュレーションに過ぎないのかもしれません。

 

次の記事に続きます>

 



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