
「自己を超越する」と聞くと、何か特別な境地に達することや、努力して「自分以上の自分」になることのように思われがちです。
しかし、仏教用語である「悟り」の伝統において語られる「自己超越」とは、そういった上昇志向や努力の産物ではありません。
それは「自己とは何か」という問いを根底から解体し、すでに存在している本来の自分に還るという、むしろ逆説的で静かな道なのです。
禅では「本来無一物」(ほんらいむいちもつ)という言葉があります。
これは、「もともと何も持っていない」「何もとらわれるものがない」という意味です。
私たちは、名前、職業、性格、過去の経験などなど、さまざまな「自己イメージ」によって自分を形作っています。
それももちろん自分ではありますが、しかし、それらはすべて借り物であり、「真の自己」とは言えないのです。
自己を超越するとは、この「偽の自己」から自由になることです。
エゴや思考によって作られた「私はこういう人間だ」という固定観念を手放し、空(くう)なる状態へと帰ることに他なりません。
「悟り」とは「新しい自分になること」ではない
多くの人が誤解しているのは、「悟り」という概念や「自己超越」を、よりよい人格や能力の獲得だと思い込んでいることです。
しかし、禅において悟りとは、「新しい自分になること」ではなく、「古い自分を忘れること」。
曹洞宗の宗祖である道元禅師は、主著『正法眼蔵』の中で次のように語ります。
「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。」
つまり、仏道(真理の道)を学ぶということは、自己を学ぶこと。
そして、自己を学ぶとは、自己を忘れること──ここに自己超越の本質があります。
自己を忘れるとは、思考によって自分を定義することをやめることです。
「私はこういう人間だ」「私はこう見られたい」「私はこんなに努力している」といった自己中心的な構造を手放し、ただ「今、ここにある存在」として世界と一体になること。
そこには境界がなく、「私」と「あなた」「世界」との分離が消えていきます。
禅の公案が示す「自己の超越」
禅ではよく「公案(こうあん)」という、思考では解けない問いを使って、悟りのきっかけを与えます。
その代表的なものに、「父母未生以前の自己は何ぞや?」という問いがあります。
これは、「あなたが生まれる前のあなたは誰か?」という問いです。
私たちは「自分とは、名前や身体、記憶に基づく存在だ」と思っています。
しかし、これらはすべて時間の流れの中で後から与えられたものです。
「生まれる前の私」とは、そういった個人性が一切存在しない「純粋な存在そのもの」、と言うこともできます。
この問いに取り組むことによって、私たちは次第に「自己」と思っていたものの虚構性に気づき、それを手放す準備が整っていきます。
そして最終的に「私」など、もとから存在していなかったという直観に至るのです。
真の自由が訪れる
私たちは「自由になりたい」「よりよい人生を送りたい」と願います。
しかし、禅の視点から見れば、多くの人が求める「自由」とは、実のところ「エゴの願望の実現」にすぎません。
たとえば「もっと成功したい」「もっと認められたい」「もっと愛されたい」という願望は、すべて「自己」という幻想を基盤にしています。
そのため、仮にそれが叶ったとしても、一時的な満足の後には新たな不安や渇望が生まれるのです。
しかし、自己を超越したとき、すべての執着や恐れは自然と消えていきます。
「私がこうでなければならない」「こうあってほしい」という強迫観念が解け、「ただある」という安らぎの中に生きるようになります。
それは、「自由になろう」としていた主体そのものが消えることで、初めて本当の自由が現れるという逆説的な現象です。
仏教ではこれを「無我の自由」とも言います。
自己超越はどこか遠くにあるものではない
「自己を超越する」と聞くと、特別な修行や長い年月が必要だと感じるかもしれません。
もちろん仏教的な修行は厳しいものですが、真の自己超越は、今この瞬間にも可能です。
たとえば、ただ静かに呼吸を観察し、思考の波を見守るだけで、「私は誰なのか?」「今ここに、本当にいるとはどういうことか?」という問いが静かに浮かび上がってきます。
その問いと共に在ること、それだけで、自己の殻は少しずつ剥がれていきます。
禅では「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」という言葉があります。どんな日も、そのままでよい。
すべての日がかけがえのない一日。すべての瞬間が修行であり、悟りであり、自己超越の場なのです。
自己を超えて、自己に還る
仏道や禅における自己超越とは、決して「自分を捨て去る」ことではありません。
それは、思い込みや執着としての「偽の自己」を見破り、もっと深く静かに「本来の自己」へと還っていく旅です。
それは悟りの道であり、同時に、今この瞬間をまるごと受け入れる道でもあります。
過去の記憶や未来への不安という幻想を手放し、ただ「今、ここにある」という真実に立ち返ること。
言葉にすると「今」という思考になりますが、思考する一瞬前のそこには言葉を超えた静けさがあるはずです。
私たちの本質はもともと「自己を超越した存在」で、ただ気づかれるのを待っているだけです。
「求めることをやめたとき、すでにそれは与えられていた」── 沈黙が、あなたの心にそう語りかけてくれるかもしれません。
