
私たちは皆、「もっと自分らしく生きたい」とか「本当の自分を見つけたい」とか、一度や二度は思ったことがあると思います。
でも同時に、その「自分らしさ」って一体何?と思ったこともあるのではないでしょうか?
私たちは「私」という意識を当たり前のように持っています。私が考えて、私が感じて、私が行動している。でも、この「私」って、一体何者?
今回も、私たちが日頃意識している「自分」とは何なのか、その真の姿を探っていきたいと思います。
私たちの「意識」と世界の繋がり
私たちは普段、五感を通して世界を認識しています。
目の前に見えるもの、耳に聞こえるもの、触れるもの……これらが「現実」だと信じて疑いませんよね。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみてください。本当にそうなのでしょうか?
たとえば、量子力学の世界を覗いてみると、驚くべき事実がわかります。
物質の最小単とされる素粒子の段階では、物質は確定した形で存在しているわけではなく、観測されるまでは波のように不確定な状態で存在している、というものです。
これは、有名な「二重スリット実験」で証明されています。
電子を飛ばすと、観測しないときは波のように振る舞い、観測すると粒子の振る舞いをするとは、まるで私たちの意識がその存在を決定づけているかのようです。
物理学者のジョン・ホイーラーは、この現象を「参加型宇宙論(Participatory Universe)」と提唱しました。
つまり、私たちの意識が宇宙の現実を形作る上で積極的に参加している、というものです。
ブッダは「一切は心によって作られる(一切唯心造)」と説き、これは、その教えにも通じるものがあります。
私たちの心が世界を認識し、世界を創り出している、これは単なる哲学的な思考ではなく、最先端の科学が指し示すものでもあります。
私たちは普段、「私」という意識を通して世界を見ていますが、科学の視点から見ると、その「私」の意識こそが、目の前の現実を紡ぎ出している可能性があるわけです。
だとすれば、「私」という小さな枠組みを超えて、異なった視点で世界を捉えることができれば、見える世界も変わるかもしれません。
「自我」という名の幻想
脳神経科学の研究では、この「私」という感覚が、実は脳が作り出している幻想のようなものだということがわかっています。
たとえば、神経科学者のアニル・セスは、私たちの意識を「制御された幻覚(Controlled Hallucination)」と表現しています。
脳は常に、感覚情報と過去の経験に基づいて、私たちの目の前の現実を予測し、作り出しているというものです。
私たちは、その脳が作り出した「現実」を、あたかも真実のように体験しているに過ぎないのかもしれません。
また、私たちの「自我」は、脳の特定の領域、例えば前頭前野などが複雑に連携して機能することで生み出されているそうです。
そして、これらの領域が損傷を受けたり、特定の薬物の影響を受けたりすると、「自我」の感覚が大きく変容することが報告されています。
これは、私たちの「自我」が、物理的な脳の働きに大きく依存していることを示しています。
さらに言えば、私たちは常に変化しています。昨日考えていたことと、今日考えていることは違うかもしれません。
子どもの頃の自分と、今の自分は別人と言ってもいいくらい変化していますよね。もし「私」が固定されたものだとしたら、こんなに変化するわけがありません。
脳神経科学者のアントニオ・ダマシオは、感情や意識の研究を通じて、私たちの「自己」が常に再構築されるプロセスであると指摘しています。
つまり、「私」という感覚は、固定された実体ではなく、脳が絶えず情報を処理し物語を作り出すことで生じている、流動的なものだということです。
「私」という名の幻想から自由になることとは、俯瞰的な視点や、宇宙的な世界観を手に入れるための道のりなのです。
空(くう)が示す真の自由
さて、ここまでで「世界は意識が作り出しうる」「私という自我は幻想かもしれない」という話をしてきました。
では、禅や悟りなどの教えが示す「自己超越」の概念は具体的にどういう状態を指すのでしょうか?
その根本にあるのは「空(くう)」の思想です。「空」とは、何もないという意味ではありません。
「言葉」や「観念」がなく、知識や経験、思考、感情といった、私たちが普段「自分」だと認識しているあらゆるものから離れた状態を指します。
禅僧たちは、座禅を通じて、これらの思考や感情の波から離れ、純粋な意識の状態を理解するための修行をします。
またこれは「何も考えない」という状態でもありません。むしろ、思考や感情に囚われず、それらを客観的に眺めることができる状態です。
ある禅僧の方は、「座禅は、思考や感情を排除するのではなく、それらに囚われない自由な心境を養うこと」と説いています。
悟りは、特別な能力が身につくことではなく、真実の認識、つまり、そこに二元論的思考はなく、「ありのまま」をそのままに受け入れる智慧を得ることと言うこともできます。
それは、特別な誰かだけが辿り着ける境地ではなく、私たち一人ひとりが日々の生活の中で実践できる、より豊かな人生を送るための道なのです。
それを踏まえると、自分らしさとは、私たちが普段認識している「私」という小さな枠組みから解放され、より大きな存在としての自分を認識し、真の自由と調和を見出すところにあるのかもしれません。
結局、自分らしさとは?
「自分らしさ=自分の本質=固定されたもの」ではなく、実際の自分は環境や経験に応じて、絶えず変化しているもの。
あるときは大胆で、あるときは繊細。あるときはリーダーで、あるときは支える役にまわる。これは矛盾ではなく、人間の自然な多面性です。
そのため、自分らしさとは「変化する自分を、そのまま許すこと」と言うこともできます。
加えて、誰かとの関係のなかでこそ、自分らしさが映し出されることもあります。
誰かを笑わせているときの自分、誰かの悲しみに寄り添っているときの自分、誰かに怒りを感じたときの自分、その一瞬一瞬に出てくる反応や感情こそ、「今、このときの自分らしさ」とも言えます。
自分らしさとは、“自分だけの中にあるもの”ではなく、他者との関わりの中で立ち上がってくる“動的な表現”でもあるのですね。
「自分らしさ」とは、無理をしていない状態
現代では「自分らしく生きよう」とよく言われます。
個性を大切にすること、他人に流されず自分の価値観で選択すること、自分の強みや感性を活かすこと、これらは確かに「自分らしさ」の重要な一面です。
でも、この「自分らしさ」というものを「こうあらねばならない」というように誤解して捉えてしまうと、逆に苦しみやプレッシャーを生むことになります。
「もっと自分らしくしなきゃ」と自分を責めたり、「自分らしい仕事」を探し続けて迷子になったり、他人の成功を見て「自分らしさが足りない」と感じたり…
つまり、自分らしさを「何か特定の型」だと思い込むことは、かえって自分を縛ってしまいます。
心理学者のカール・ロジャーズは、「本当の自分と一致しているとき、人は最も創造的で自由だ」と言っています。
つまり、自分らしさとは、努力して演じるものではなく、“すでにあるものに気づいて自然でいること”とも言えます。
たとえば、うまく話せなくても気にしない、自分の弱さや迷いもそのまま受け入れる、「正解、不正解」ではなく「誠実さ」で行動する、
こうした状態にあるとき、人は力まず、静かな安心感の中で生きているでしょう。
そこには、外からの承認も、「これが正しい自分」という緊張もありません。
「自分らしさ」は探すものではなく、気づくもの
「自己」を探す旅は、私たちが普段認識している「私」という小さな枠組みから解放され、より大きな存在としての自分を認識し、真の自由と調和を見出すためのプロセスなのかもしれません。
そしてそれは、特別な誰かだけが辿り着ける境地ではなく、私たち一人ひとりが日々の生活の中で実践できる、より豊かな人生を切り開くための道。
「自分らしさ」を追い求める旅の終着点は、「自分」という概念を超えた先にあったのかもしれません。