悟りとは 非二元

悟った人はいない…とは?

「悟った人はいない」という表現は、一見するとスピリチュアル的な世界観と逆のように聞こえて、少し意外に思えるかもしれませんよね。

 

でもこれは「誰もブッダのような悟りの境地には至っていない」という意味ではなく、本質的な表現です。

 

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「悟った人」という前提が幻

「悟り」というのは本来、個人の能力や所有物ではなく、「個人」や「私」という分離した存在そのものが幻想だったと見抜くこと。

 

もし本当にその気づきが起きたなら、その瞬間に「悟った私」という主体は消えています。

 

つまり「悟った人」という表現は矛盾していて、悟った“人”が存在するのではなく、悟りとともに“人”という幻想が消えるのです。

 

歴史的な背景

波が「私は悟った波です」と言っているようなもの。

 

波は海から生まれ、海そのものであり、そもそも海から切り離されていません。

 

悟りとは「私は海の一部ではなく海そのものだった」と気づくことであり、その時点で「個別の波としての自己主張」は意味を失うのです。

 

仏教の中でも、禅や大乗仏教はこの考えを強調していて、たとえば禅僧の言葉に「悟ってしまえば、悟った者などいない」という趣旨のものが多くあります。

 

理由はシンプルで、悟りとは「自己」という構造の解体だからです。

 

「悟った私」と言っているうちは、その「私」がまだ残っている=完全には悟っていない、ということになるわけです。

 

実用的な意味合い

この視点を持つと、悟りを「特別な人が持っている到達点」という感覚で追いかける必要はなくなります。

 

悟りは遠くの誰かが持っているものではなく、既に私たちの本質として在るものだと分かるからです。

 

もし、一部の選ばれた人だけが到達できる特別な境地だと捉えてしまうと、自分には縁がないものかもしれないと感じてしまいます。

 

それは日常の中にある小さな気づきや成長の積み重ねであると知れば、誰もがそのプロセスを歩めることになります。

 

しかし悟りが「腑に落ちる」には、頭で理解するだけでは足りず、体験としてその視点を生きる瞬間が必要です。

 

この理解につながるポイントは、次のようなものになります。

 

「私」という前提が揺らぐ瞬間

多くの場合、私たちは「私が考えている」「私が感じている」「私がやっている」という枠組みの中で生きています。

 

悟りが腑に落ちるのは、その「私」という基盤そのものが、単なる思考や感覚の集合だと見抜けた瞬間です。

 

これは衝撃的な気づきで、理屈ではなく感覚のレベルで理解されます。

 

思考を俯瞰、客観視する練習を重ねる

瞑想やマインドフルネスは、「そのままを見る」ということの練習です。ポイントは、

  • 思考が浮かぶ前の感覚に気づく
  • 評価や意味づけを外して現象をそのまま見る
  • 「気づいている意識」そのものを感じ取る

これを続けると、思考=私 というわけではない、という感覚に気づきやすくなります。

 

悟りを得ようとする私

皮肉なことに、「悟りたい」という思いが強すぎると、その“悟りを得ようとする私”がいつまでも残ります。

 

脳が作り出した「悟った自分」という物語は、新たな煩悩やエゴを生み出すことにもつながりかねなく、悟りや覚醒といった言葉を特別視しすぎると、エゴの肥大化につながって、ある意味苦しい状態になります。

 

それは新しい何かを得る体験というものではなく、ずっと持っていたものから覆いが外れる体験です。

 

覆いが落ちる瞬間、それは自然に腑に落ちます。

 

日常的な実践法

これらを日常に組み込むと、やがて自然に腑に落ちやすくなります。

 

ラベルを外す練習(対象をただそのまま見る)

  • たとえば道を歩いていて、木や人や空を見たとき、頭の中では即座に「木だ」「人だ」「空だ」と言葉が浮かびます。
  • 1日のうち数回だけでも、ラベルをつけずに「ただ形や色や音」として眺めてみましょう。
  • すると「これは私が見ている対象」という二重構造が少し緩みます。

 

気づきのブレイク(呼吸に戻って裸の体験を感じる)

  • 1日のうち、気づいたときに10秒だけ呼吸に意識を向ける。
  • 息を吸う → 「吸っている感覚」
  • 息を吐く → 「吐いている感覚」
  • このとき「私が呼吸している」ではなく、「呼吸が自然に起きている」と見ます。
  • これを繰り返すと、思考のない裸の体験に触れやすくなります。

 

完了の言葉をつぶやく(探求心を手放す)

  • 1日の中でふとしたときに、自分に向かってこうつぶやいてみます「すでに足りている」「これで完全」
  • これは自己暗示というわけではなく、探求の力をふっと緩めるための習慣です。
  • 意識的に「求めない時間」を作ることで、逆説的に腑に落ちやすくなるのです。

 

人間はなぜ、正解や幸福を探し続けるのか?

ここで少し、補足をしようと思います。

 

人間は多かれ少なかれ、何か欲しかった物(名誉、仕事での評価、大金など)を手に入れても、喜びは一時的なものであって、なぜか虚しさを感じたり、再びそれ以外の何かを求め始めたりする生き物です。

 

あなたも、特に理由もなく何かが満たされない感じ、何かが欠けている感じといった「空虚感」を感じたことがあるのではないでしょうか。

 

これは、実は「ぽっかり心に穴が空いた感じ=私そのもの」である、と言えるからなんです。

 

この辺りを、哲学・心理学の観点から少し見てみましょう。

 

仏教的視点(無我)

「人間は存在しているのではなく、存在している感覚があるだけ」という観点があります。

「私」という固定的な実体はなく、常に変化する現象(五蘊)の集まりが「私」と錯覚されているという理解です。

こういった空虚感は、「私」という前提があるからこそ生まれることを意味しています。

 

西洋哲学(存在論・実存主義)

ヨーロッパの哲学者 ハイデガーやサルトルも「存在とは何か」を問い直しました。

サルトルは「人間は自由という宿命を負わされている」と言い、その自由がむしろ“虚無感・不安”を伴うとしました。

これは「存在と喪失感はセット」であることを意味しています。

 

心理学(欠如モデル)

フロイトやラカンの理論では、人間は根源的な“欠如”を抱えて生きる存在だとされます。

ラカンは「人は常に欠けている何かを求め続けるが、完全には埋まらない」と説きました。

まさに「喪失感をお金や地位で埋めようとしても無理」という話です。

 

現代心理学・ポジティブ心理学

近年では、喪失感や不安といった思考や感情を、人生の自然な一部として受け入れ、どう意味づけるかに焦点が当たっています。

例えばマインドフルネスや心理療法では、「不安や喪失感を消そうとするのではなく、それと共存して価値に沿った行動を選ぶ」ことを重視します。

 

人間はそういうもの

「ぽっかり心に穴が空いた感じ」は、間違って持ってしまった感覚ではなく、人間である以上避けられないもののようです。

そのため、それを「どう受け止めるか」が大事で、そこから生き方や自由が生まれるのです。

 

克服しようとするほど強まる

「埋めたい」「なくしたい」と思えば思うほど、“空虚感=自分”という構造そのものを強化してしまいます。

たとえば「不安を消そう」とすると余計に不安が大きくなるのと同じです。

 

空虚感があるからこそ豊かになる

失うかもしれないから、いまの瞬間や人とのつながりが貴重に感じられたりするものです。

だからこそ、無常や欠如は「生の厚み」を生み出すと言えます。

 

心理学的にも受容が鍵

心理療法やマインドフルネスなどでは、「不快な感覚を排除せず、共にある」とする姿勢を大事にしています。

避けられない思考や感情を敵にせず、「自分はこの感覚と一緒に生きてるんだな」と認めることが、結果的に苦しみを和らげる方向へ働くのです。

そう考えると、色々なことの見え方が今までと変わるかもしれませんね。

 

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